スカイステージの「プレ・ステージ~歴史のトビラをたたく~」
観劇前に、予習するのは嫌、って方もいらっしゃいますが、先に本を読んだり、関連番組を観たりすると、より深く理解でき、お芝居そのものに厚みが出ます。
まぁ…そのために、この番組があるわけですが^^
スカイステージさまも、「観劇前に見れば楽しみが倍増する必見の番組です!」とおっしゃってます^^
大道具、小道具、衣装など、私の好きな裏方仕事も紹介してくださる「ステージ・ドア」も大好きな番組です。
さて~、「プレステージ ~歴史のトビラをたたく~」は、日本物作品に関連する地をご紹介する番組。
これまでに、7公演の放送がありました。(太字は観た回)
#1 星組公演『桜華に舞え』
#4 星組公演『ANOTHER WORLD』
今回8回目は、月組公演「桜嵐記」、楠木正成ゆかりの地をめぐります
今回は、南北朝の動乱期を駆け抜けた武将・楠木正行の生涯を描いた月組公演『桜嵐記』にちなんで、正行の弟・正時を演じる鳳月杏と、正行の父・正成を演じる輝月ゆうまが正行について学びます。
スカイステージHPより引用
コロナ下の「プレ・ステージ」、生徒さんたちは、以前のようにゆかりの地へおでかけできませんから、楠木正成(役)名代の、馬のぬいぐるみ=正行の愛馬「初霜」ちゃんと、カメラさんが取材をしてこられました。
楠木正成役の輝月ゆうま、次男の正時役の鳳月杏のお二人はスタジオで収録。
神戸市中央区 湊川神社
楠木正成を祀る神社。
正成は後醍醐天皇に忠誠を尽くされた武将として有名。
智・仁・勇の三徳を備えた聖人として尊敬され、その教えは三兄弟にも受け継がれたのです…
功績を讃えられて 正成は大楠公、正行は小楠公と呼ばれるようになったそう。
湊川神社は、関西人に馴染みが深く、「楠公さん」と呼び親しまれています。
私も何度か行ったことがありますが、楠の大木に囲まれた境内に入ると厳かな気持ちになります。
今度、御朱印もらいに行こうっと!
殉節地
正成公と一族が亡くなった所。
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏を迎え撃つために 河内から、湊川に赴いた正成。
馬と自転車と同じぐらいの時速15キロだとして4時間半!!
多勢に無勢、前後を囲まれてこれまで、と正成が自刃した地なのだそうです。
「桜嵐記」では、楠正成は、矢に撃たれて派手に散って行きますが、本当は兄弟で刺し違えて亡くなったのです。
Q:途中まで 当時11歳、子供の正行を湊川の戦いに同行させたのはなぜ?
A:正行たっての希望
教養や武術をすでに身に着けていた。長男としての自覚、父を支えたいという思いがあった。
劇中でも、こんな場面が…銀橋で子供時代の正行役・白河りりちゃんが「一緒に行かせてください!」と演じてますね^^
大阪府三島郡島本町 史跡桜井駅跡
楠公父子決別の地。
昔の「駅」は、幹線道路に設けた施設 馬と旅に必要な物を備えていたそう。
武士の頭領・尊氏の天下を確信し、死を覚悟で湊川の戦いに挑んだ正成。
負け戦と知りながら赴く正成の胸中を思うと胸が痛みます。
戦術に長けた正成の策をことごとく 後醍醐天皇に退けられても、天皇への忠誠を示すために戦ったのか…無駄死にを強いた後醍醐天皇のバカ~~
Q:正成が正行と桜井の地で分かれたのはなぜ?
A:さらなる戦いに備えるため
楠木氏の戦いは、正当な吉野朝を支え、復権に向けての戦いでした。
桜井で、正成は後醍醐天皇から賜った短刀を正行に授け、別れを告げた。
湊川の戦いで亡くなった父の亡骸が届き、正行は自害しようとしたけれど母に無駄死にをするな、と諭された。
千早赤坂村 建水分神社
扁額の裏に正行の文字 15歳の時の直筆。
Q:扁額の文字は何で書かれているか?
A:漆
父亡き後、正行は後村上天皇を支え政を行っていた。
財源を蓄え、領民に、軍事訓練を行ったり、情報収集をしていた。
表向きは、政に携わり、裏では吉野朝復権のために動いていたそうです。
Q:楠木氏の家紋菊水 上は天皇から賜った菊、下半分の水の流れは何を表している?
A:水の神様
水の分配に携わっていた。
河内と吉野を結ぶ官道
正行と弁内侍の出会いの山道も映りました。
運命的な出会いで弁内侍が正行を慕うようになる。
正行20歳、弁内侍17歳のときの出会い。
北畠親房という吉野朝廷トップと 身分制という壁のため確執が生じて。
足利軍と和睦の道を模索する正行に、異議を唱えて負け戦をさせた北畠親房。
正行もまた、父と同じように、負け戦と知りながら四條畷の戦いに挑んだのですね…。
大阪市北区 渡辺橋
Q:正行が川に落ちた敵兵にしたことは?
A:川に落ちた敵兵を助けた。
ここは劇中でも描かれています。
ちなつちゃんが、イノシシ丸焼きにしていたシーン。
あの川は…大川だったの?? あまり深く考えてなかったけど。
吉野山 如意輪寺
後醍醐天皇が腰掛けた 腰掛け石があるお寺。
四條畷の合戦の前に、正行公が、後村上天皇に暇乞いをしに来た際、143人の兵士のた 髷を切り 髷を奉納したそうです。
四條畷の戦いの前
かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる
と鏃(やじり)で辞世の句が書かれた(彫られた)木製の扉も遺っています。
緊急事態宣言下で、遠出はできませんが、市内なので、湊川神社に行ってみようと思います。
昔の人の移動は大変!
楠木正成・正行親子が桜井駅で別れるまで、楠木城を出て、馬で4時間近く!
弱冠11歳の正行は、4時間も馬に乗れたのでしょうか?
父は兵庫に赴かん~と 楠木城(千早赤坂村)を出て、湊川まで馬で4時間半!!
もし、途中、桜井に寄って、正行を帰らせたとしたら、もっと時間かかっていますね。
馬も、途中で休ませないといけないし、リアルに想像できないです。
弁内侍が駕籠に乗っていて襲われた官道は、吉野への道だったようです。(番組で映っていた場所)
前から、ずっと不思議だったのですが、よりによって、何故こんな山深いところに朝廷を構えたのか、と。
建水分神社から、吉野の朝廷があった吉水神社まで徒歩で6時間。駕籠に乗ってたらもっと時間がかかりますね。
それが当たり前の当時は、気にならないのかもしれないけど…。
南朝は、不便すぎて、移動に時間かかりすぎて、無駄な労力やお金がかかったのでは?と思ってしまいます^^;
「桜嵐記」の最後に、後村上天皇が桜を愛でるシーンがありますが、吉野の都は桜を除けば寂しい都だったのでは?と思ってしまいます。
南朝必滅の理?
番組観て、関西人だから土地勘あるし、歴史好きだから、すごく楽しかった~♪
で、記事書くにあたり、地図までググって…だいぶ遊びましたw
【追記】湊川神社に行ってきました ↓
9年前に行った吉野の記事です ↓